美しく生きるということ――がんサバイバーの1人として

§6 第1の嵐:絶頂からどん底へ


ところがその絶頂の時、突然、大きな嵐がやってきます。アジア通貨危機(1997年7月~)です。アジア各国の通貨が急激に下落し、銀行や民間企業の破綻が相次ぎました。主要な取引先であった韓国もIMFの管理下に入り、経済活動が一気に収縮してしまったのです。

それでもアジア各国のビジネスパートナーたちは、なんとか持ちこたえようとがんばってくれました。しかし緊縮財政が敷かれ、韓国では関税が200%にもなるなど、状況はどんどん悪化する一方で、営業を継続すべきかどうか決断を迫られるような事態に陥っていました。

その一方で、日本の経済状況はそれほど深刻な落ち込みもなく、それなりに売上は上がっていました。しかしアジアの切迫した現実を目の当たりにしていた私には、「このままではいつか日本でのビジネスもダメになってしまう。今のうちに組織改革をしないと…」という、焦るような思いがありました。

商品が良いのは当たり前のことです。それと同時に、「サービスの質を向上させて、もっと顧客満足度を上げたい。そしてそのサービスの質を全国で統一させたい」と、中心になって動いてくれていた全国380の取扱い仲間に訴えました。

アジア通貨危機のこともあり、みんな賛同してくれると思っていたのですが、現実は違いました。「今の状態で売れているんだから、このままで問題ない」「桂さんは理想を追い過ぎる。もっと現実を見たほうがいい」というのが大方の意見でした。

当時、私はまだ30代前半。取扱い店の多くはずっと年上の人生経験豊富な人たちです。上場に向けて主幹事としてサポートしていた日興証券や銀行の担当者も、「まだまだ発展途中ですよ。1000店舗までいったら改革したらいかがですか?」という意見でした。ここでも私は創業の時と同じように、「たら・れば」を言っていたらいつまでたってもできないと反対意見を押し切って組織改革を断行しました。

その結果、多くの人が離れていき、380の取扱い店が30に減ってしまったのです。

それからは、売上も落ち込み、士気も下がり、地獄のような日々でした。アジアのビジネスも崩壊してしまいました。なんとか這い上がろうと必死に働きましたが、私の心はどうしようもない虚しさに支配されていました。

それは売上が落ちたからでも、上場への夢が挫折したからでもありません。共に夢を語り合ってがんばってきた仲間を、自分勝手な理想を貫こうとするあまり裏切ってしまったのではないか…という後悔です。

それ以降は、何か新しいことをやろうとしても、またみんなに迷惑をかけてしまうのでは…という恐怖に襲われて、あれほど強かった仕事への情熱が冷え切っていました。借金もどんどん膨らんで経営危機となり、従業員の給料も払えなくなっていきます。

「私が死ねば死亡保険でなんとか…」という思いまで心をよぎるように…。路頭に迷う従業員たちの足しになればという一心から出たものですが、いま振り返れば若気の至りで全く愚かな考えでした。しかしそのときは本気でそうするしかないと思うほど、追い詰められていたのです。

35歳で絶頂からどん底へ――世界はもうすぐ2000年になろうとしていました。